2025年4月22日火曜日

篠田 正浩 監督 逝去

篠田 正浩監督が亡くなりました。ご冥福をお祈りします。篠田監督は松竹を離れた独立系映画監督の中で、大島渚、吉田喜重と比較して、大手の映画会社の作品を手掛けることが多い監督でしたので、福島でも作品を見る機会が比較的多かった監督です。TVでも放送されることが多かったので、ハードディスクに録画した映画の中から、暗殺、鑓の権三、悪霊島、梟の城を一気見しました。
(以下、ウィキペディアより)
篠田 正浩(しのだ まさひろ、1931年3月9日 - 2025年3月25日)。株式会社表現社代表取締役、早稲田大学特命教授、日本中国文化交流協会代表理事、城西国際大学メディア学部客員教授。岐阜県岐阜市生まれ。梅林小学校、岐阜県立加納高等学校、早稲田大学第一文学部卒業後、松竹に入社。1960年代にかけて大島渚、吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルバーグの旗手と呼ばれた。
早々に会社と衝突して独立した二人と異なり、松竹にしばらく残った後、1966年にフリーになる。翌年に独立プロダクションの株式会社表現社を設立。前衛的作品も辞さない大島や吉田に比べ、篠田は平易なサービス精神も持ち合わせており、独立後の1960年代後半から1970年代前半は『心中天網島』(1969年)や『無頼漢』(1970年)などの先鋭的な作品を独立プロから連発したが、1970年代後半からは『はなれ瞽女おりん』(1977年)や『鑓の権三』(1986年)などの大手映画会社配給の大作が多く、『鑓の権三』ではベルリン国際映画祭の銀熊賞 (芸術貢献賞)を受賞した。1990年、『少年時代』で第14回日本アカデミー賞の作品賞・監督賞を受賞。カンヌ国際映画祭のコンペティション部門へは『写楽』(1995年)など3度の出品を果たした。作品には妻である岩下をはじめ、浜村純、大滝秀治、加藤治子、津村鷹志、永澤俊矢などを複数回起用していた。1986年から1987年のTBS系列番組『日本が知りたい』ではキャスターも務めた。
2003年、大作『スパイ・ゾルゲ』を最後に映画監督からの引退を発表した。2016年、京都国際映画祭2016で牧野省三賞を受賞。
2025年3月25日、肺炎のため死去。94歳没。

恋の片道切符 (1960年)
乾いた湖 (1960年) 原作:榛葉英治、脚本:寺山修司
三味線とオートバイ (1961年) 原作:川口松太郎
わが恋の旅路 (1961年) 原作:曽野綾子、脚本:寺山修司
夕陽に赤い俺の顔 (1961年) 脚本:寺山修司
涙を、獅子のたて髪に (1962年) 脚本:寺山修司・水沼一郎・篠田正浩
山の讃歌 燃ゆる若者たち (1962年) 脚本:白坂依志夫
私たちの結婚 (1962年) 脚本:松山善三・篠田正浩
乾いた花 (1964年) 原作:石原慎太郎
暗殺 (1964年) 原作:司馬遼太郎
美しさと哀しみと (1965年) 原作:川端康成
異聞猿飛佐助 (1965年)
処刑の島 (1966年) 原作:武田泰淳、脚本:石原慎太郎
あかね雲 (1967年)
心中天網島 (1969年)原作:近松門左衛門、脚本:富岡多恵子・武満徹・篠田正浩
無頼漢 (1970年) 脚本:寺山修司
沈黙 SILENCE (1971年) 原作:遠藤周作
札幌オリンピック (1972年) ドキュメンタリー
化石の森 (1973年) 原作:石原慎太郎
卑弥呼 (1974年)
桜の森の満開の下 (1975年) 原作:坂口安吾
はなれ瞽女おりん (1977年) 原作:水上勉
夜叉ヶ池 (1979年) 原作:泉鏡花
悪霊島 (1981年) 原作:横溝正史
瀬戸内少年野球団 (1984年) 原作:阿久悠
ALLUSION 転生譚 (1985年) 脚本:岸田理生
鑓の権三 (1986年) 原作:近松門左衛門
舞姫 (1989年) 原作:森鷗外
少年時代 (1990年) 原作:藤子不二雄A
写楽 (1995年) 原作:皆川博子
瀬戸内ムーンライト・セレナーデ (1997年) 原作:阿久悠
梟の城 owl's castle (1999年) 原作:司馬遼太郎
スパイ・ゾルゲ (2003年)
『日本語の語法で撮りたい』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1995
TVドラマ 天皇の世紀 第10話 攘夷

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