2021年2月22日月曜日

朝日新聞 科学季評:コロナ、縮む社交の場 文化の力奪うオンライン 山極寿一氏

新型コロナウイルスによる感染症が世界を覆い始めてから1年。
私たちが県境や国境を越えて頻繁に移動し大規模な集会を開いたことが、感染の機会を広げクラスター感染の舞台を作った。そのため、私たちは3密(密閉・密集・密接)を避けて暮らすことを余儀なくされている。その結果、人間が社会を作る上で欠かせない、移動する、集まる、対話するという三つの自由が大幅に制限された。
オンラインで多くの人とつながることで新しい対話の道が開かれ、時間やコストを軽減できるメリットが見えてきたという意見もあるが、人間が社会生活を送る上でとても大切な能力が衰え始めていると感じる。それは文化的な暮らしをデザインし、実施する能力だ。(山極寿一氏 朝日新聞)
 
コロナ禍での生活になって、いつの間にか1年経過した。当初、学会・講演会がオンデマンドになり、たくさんのレクチャーを自由に聴講できるメリットを実感していたが、1年経過してみると、この環境に飽き飽きし始めている。どうしても自分で選択するコンテンツは、内容が似通ってきてしまう。途中で打ち切ってしまうことが簡単にできるため、その点からも相性のいいものばかり選んでしまう。 結果的に物足りなさを感じている。どうしても受け身なので、いままで、参加したことのなかった研修会などを積極的に聴講するようにしているが、それでも物足りない。なぜ、物足りないのか、山極先生のコラムを読んで妙に納得できた。
スーツを着ることも減った。パッキングすることはなくなった。交通手段や宿泊予約もなくなった。食事の計画もなくなった。そういう手間や思い悩みがまったくなくなっているのだ。コロナ禍が原因ではなく、リモート化が原因なのだ。コロナが終息しても、リモート化の流れは止まらないであろう。このままではヤバイかも、と思い始めている。いわゆるサブスク化の悪影響もある。コンテンツごとのコストが意識されないため、選択する際の本気度が減っている。つまみ食いのように、次々と別のコンテンツに変えてしまうことが多くなった。学会を視聴するか、TVを見るか、アマゾンのビデオを視聴するか、がお茶の間でモニター上で並列に並んでいるのである。逃げ場だらけなのである。筋肉の緊張感もなく、つい、だらだら・ごろごろと過ごしてしまう。
時々、北一硝子のお猪口で冷酒を飲んでいる。酒を注ぐと、お猪口の中の水面から花火が上がっているように見え、水面に花火が映って見える。2年前に小樽の講演会にお呼ばれした際に買い求めたものである。北一硝子は現地に行かないと買えないという貴重感もあり、講演にまつわる様々な思い出が詰まっている。ネットや通販では手に入らないものの貴重さがあるように思う。
やっぱり体を動かして、現場に行って、人と会うことは、緊張感を持って情報を吸収する経験ができる点で掛け替えのない手段だったのだと思う。というわけで、この状況の打破のために、いくつか考えていることがあるので試していきたいと思う。

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